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およそ30種類を独自製法で長期自然発酵させて、手づくりで原液づくりをしている発酵飲料です。

あらゆるものは存在しない? すべてが「空」であるからこそ救われる




皆さん、こんにちは。
私は古神道を生涯続けて少しずつ学んでいきたいと思っていますが、今日は仏教のお話です。

もちろん、私も古神道のみにこだわることなく柔軟に、仏教はじめ素晴らしい先人先達の教えを学んでいきたいと思っています。

そして、最近はいつも私の心を占めているのは「空(くう)」なのです。
その「空」について、少しわかりづらいかも知れませんが、仏教学の権威の梶山雄一さんが『般若経 空の世界』を出版されました。

それを現代ビジネスさんが紹介してくれています。
ご興味がある方は下記のアドレスからご覧ください。

なお、難しい空(くう)について、私が学ばせていただいている大島英明さんが平易にやさしくお話してくれていますので、そちらもご紹介していきたいと思いますので、ご興味がある方はお楽しみに。

あらゆるものは存在しない?
すべてが「空」であるからこそ救われる。
仏教の驚きの考え方! 輪廻も世界も幻?!
梶山雄一『般若経』をもとに
現代ビジネス 2022.10.17
https://gendai.media/articles/-/100695

梶山雄一
人は宗教に何を求めるだろうか?

個人としての救い、世界全体の救い、あるいは……。
いずれの場合でも、この世界に対して自暴自棄にならず、しっかりと向き合うためのすべが求められることだろう。

だが、仏教ではすこし考え方が異なる。

というのも、何もかもが幻であり存在していない、つまりは「空」であるという考え方こそが、教えの根本にあるのだ。

何も存在していないとするなら、ひとは自暴自棄になるほかないのではないか!?
そう考えてしまいそうにもなるが、仏教はそこで驚きのロジックを駆使する。
万物を救うための世界観を提示するのだ!

待望の文庫化を果たした名著『般若経 空の世界』から、仏教の核にある「空」の哲学を紹介しよう。
(※本稿は梶山雄一『般若経 空の世界』を一部再編集の上、紹介しています)

ブッダの代表的な弟子の一人であるスブーティ。
かれは、ブッダに「菩薩大士とは何なのか?」とたずねる。
そこには仏教の教えの核と言えるものがあった!

■何事にも執着しない存在「菩薩大士」
『八千頌(はっせんじゅ)般若経』(以下『八千頌』)第一章においてスブーティはブッダに菩薩大士というときの菩薩および大士とはどういう意味であるかをブッダに問う。

それに対してブッダは次のような意味のことをのべる。
「菩薩大士はすべてのものを理解するために、執着しないということにおいて、無上にして完全なさとりをさとるのである。さとりを目的とする点で大士は菩薩と呼ばれる。有情の大集団、有情の大群集の上首たることを達成するから菩薩は大士と呼ばれる」と。

スブーティはブッダの答えを理解していう。
「菩薩大士といわれるのは(こういうわけです)。
かのさとりを求める心(菩提心)、全知者性を求める心、汚れのない心、比類のない心、至高なる心であって、すべての声聞や独覚と共通しないもの、このような心にさえ彼は執着せず、こだわらないのです。
なぜかといいますと、その全知者性を求める心は汚れがなく、こだわりがないからです。その汚れがなく、こだわりのない全知者性を求める心にさえ彼は執着せず、こだわりません。そういう意味で菩薩大士という名で呼ばれるのです」。

この『八千頌』の文章においても、無執着が強調され、「サットヴァ」という語は「心」の意味で解釈され、自己のさとりと利他の完成をめざす者が菩薩大士と呼ばれている。

ハリバドラの解釈は『八千頌』の意味するところによく対応していたのである。

■現世に執着しない姿勢から「空の哲学」へ
「般若経」が強調する大乗の菩薩すなわち菩薩大士には二つの基本的な性格がある。
一つは「ものの特徴を認識せず、ものに執着しない」という無執着の態度であり、他の一つは「自分でそうしようとすればできるにもかかわらず、完全な涅槃において涅槃したいと思わないで、かえって、この上なく苦しんでいる有情の世界を見て、無上にして完全なさとりをさとろうと欲し、輪廻をおそれない」(『八千頌』第十五章)という不住涅槃の態度である。

この無執着と不住涅槃ということは「知恵」と「巧みな手だて」(方便)といいかえてもよいもので、いずれものちに述べる空の哲学に裏付けられている。
いまはこれを一般的に論じておきたい。

現世に執着せず、さらには何も認識しないというスタンスが、なぜ救いにつながるのだろうか?
それは単なる自暴自棄とどう異なるのか?
ブッダとその弟子であるスブーティの対話はつづく。

■何も得ず、涅槃に入らないことが完成である!?
『八千頌』第一章は「般若経」の思想を集約していて、それだけに逆説にみち、抽象的であって、難解な部分である。

しかし、菩薩大士についても、総括ともいえるような文章で前述の二つの性格を描きだしている。
そこでスブーティはいう。

「世尊よ、物質的存在を取得せず、同様に感覚、表象、意欲を、そして思惟を取得しないこと、それが菩薩大士の知恵の完成である、と知らねばなりません。
また、如来だけがもつ十種の知力(十力)、如来だけがもつ四種のおそれなき自信(四無所畏[しむしょい])、仏陀だけがもつ十八種の精神的特性(十八不共法[ふぐほう])を完成しないで、途中で完全な涅槃にはいってしまわないこと、これも、世尊よ、したがって、菩薩大士の知恵の完成である、と知るべきです」

■得るのではなく、捨てることが真理である
物質的存在・感覚・表象・意欲・思惟という五蘊の範疇は「あらゆるもの」をあらわす。
スブーティは注釈するようなしかたでことばをついでいる。

「物質的存在は物質的存在としての本体(自性)を捨て、感覚、表象、意欲も同様であり、そして思惟も思惟としての本体を捨て、知恵の完成も知恵の完成としての本体を捨て、全知者性も全知者性としての本体を捨てています。知恵の完成は知恵の完成としての特徴を捨て、特徴は特徴の本体を捨て、特徴づけられるものは特徴づけられるものの本体を捨て、本体は本体の特徴を捨てているのである」。

菩薩大士がものに執着しないということは彼の心的態度というだけではなくて、あらゆるもの、作られたもの(有為)も作られないもの(無為)も、また、物質的存在から仏陀の本性である全知者性や涅槃にいたるまで、いかなるものもその固有の本体をもたない、空であるということが真理であるからである。

教えを通して何かを得るのではなく、逆に何もかもを捨てていくことを重要とする仏教。
しかし、その先には何があるのか?ブッダ(世尊)は巧みなたとえ話で弟子であるスブーティを導いていく。

■救うべき人は存在しない!?
菩薩大士が苦しみ迷う有情の世界を見て、あらゆる有情を救わないかぎり、自分だけのさとりとやすらぎのために輪廻から脱出して絶対の死に入ることをしない、ということも、実は迷える有情も静寂な涅槃も本体がないものであるからである。
『八千頌』のなかのもっとも美しい文章の一つを紹介しよう(第一章)。

そのとき、スブーティ長老は世尊にこう申しあげた。
「世尊よ、『偉大な(徳の)甲冑に身を固めている、偉大な甲冑に身を固めている』ということがいわれますが、世尊よ、菩薩大士は大きな甲冑によってどれほど身を固めているのですか」
世尊は仰せられた。
「スブーティよ、この世間で菩薩大士はこう考える。『私は無量の有情を涅槃に導かねばならない。無数の有情を涅槃に導かねばならない。けれども涅槃に導かれるべき人々も、導くものも実は存在しないのだ』と。
彼は(無量、無数という)それほど多くの有情を涅槃に導くが、しかも涅槃にはいったいかなる人も、涅槃に導いたいかなる人も実は存在しない。
それはなぜであるか。幻の本性を考慮に入れれば、スブーティよ、もろもろの事物のものの本性(法性)はそういうことになるであろうから。

■群衆を魔法で作り出したあと消し去るとしたら……
たとえば、スブーティよ、熟練した幻術師、あるいは幻術師の弟子が大きな四道の交差点で大群集を魔法でつくり出すとしよう。
つくり終わってからその大群集を消し去るとしよう。スブーティよ、どう思うか。そのばあい、いったい、だれかによってだれかが害され、殺され、滅せられ、または消されたことになろうか」

スブーティは申しあげた。
「そうではありません、世尊よ」

世尊はお続けになった。
「ちょうどそのように、スブーティよ、菩薩大士は無量、無数の有情を涅槃に導くけれども、涅槃にはいる人も、涅槃に導くいかなる人も存在しない。
もし菩薩大士が、この教えがこのように説かれるのを聞いて、おそれず、おののかず、恐怖に陥らないならば、この菩薩大士は、それほど偉大な甲冑によって身を固めていると知られるのだ」

■つくられず、変化せず、形成されないもの
そのとき、スブーティ長老は世尊にこう申しあげた。
「世尊よ、私が世尊のお説きになったことの意味を理解するかぎりでは、そのような菩薩大士は(ものの本性の立場からいえば)実は甲冑で身を固めてはいないと知られます」

世尊は仰せられた。
「そのとおりである、スブーティよ。まことにそのとおりである。この菩薩大士は実は甲冑で身を固めてはいないと知らねばならない。
それはなぜか。スブーティよ、全知者性というものはつくられず、変化せず、形成されないからなのだ。
また、菩薩が彼らのために甲冑で身を固めるというその有情たちもつくられず、変化せず、形成されないものだからである」

群衆が幻で作られたあと、消し去られたとしても恐れることは何もない……。
そんなたとえ話から、どんな世界観が提示されるのか?
仏教における核であるがゆえに難解な「空の哲学」に迫っていく。

■何もかもが幻であること
ここで、あらゆるものが「つくられず、変化せず、形成されない」といわれるのは、それらがつくられないものとしてあるということではない。
かえって、あらゆるものには本体がなく、その意味で、ものは空である、ということである。
幻術師がつくり出した幻が、どれほど大きな光景であり、どれほど千変万化しようとも、本体としては存在しないのと同じである。
菩薩大士が生死輪廻をおそれず、涅槃にはいりたいとも思わないのは、輪廻も涅槃も本体がなく、空であるからである。
いいかえれば、その二つはともに空であることによって不二であり、分けられず、区別できないからである。

■すべてが幻だと言われても恐れない
菩薩大士が偉大な甲冑で身を固めるといわれるのは、さきに菩薩の語義を述べたさいにふれたように、このことばが勇猛な戦士というイメージと連合しているからである。
彼は「すべてのものは実在しない、本体がない、空である」といわれるのを聞いても、戦士のように、おそれず、おののかない。
そしてあらゆる有情のために偉大な甲冑で身を固めて戦うが、実はそれは甲冑でもなく、虚空との戦いにすぎない。
「世尊よ、知恵の完成の修習というものは、虚空を修習するようなものです……有情たちのために甲冑を結ぶ人は、虚空と(の戦闘のために)甲冑を着けようとするのです。
世尊よ、菩薩大士は偉大な甲冑で身を固めた人です。
世尊よ、虚空に等しい有情、さとりの世界(法界)に似た有情たちのために甲冑を着け、無上にして完全なさとりをさとろうと思う菩薩大士は英雄であります。
世尊よ、彼は虚空を解放しようとするわけです」(『八千頌』第八章)。
菩薩大士は虚空の鎧を着け、実在しない有情のために、実在しない敵と戦うのである。

日本人に最もなじみぶかい宗教のひとつである仏教。その主流とされるのが「大乗仏教」だ。
出家した極少数のひとびとだけでなく、あらゆるひとびとが平等に救われうるとするその教えは、経典「般若経」やその簡略版である「般若心経」などにまとまってはいるものの、難解で学びづらい。
そこでおすすめなのが、待望の文庫化をはたした梶山雄一『般若経 空の世界』。
仏教学の権威がいくつものエピソードを交えつつわかりやすく紹介する「大乗仏教」の考え方は、アクロバティックで刺激的、何より現代においても重要な指針となるだろう。
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